Quadrophenia

好きなものを好きって言えるといいね。てか、日本の流行って知らないんだよ。
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パッションパッション … The Passion of the Christ (2004) は生誕・受難・栄光に分けられるナザレのイエスの受難にあたる最後の12時間を再現したものである。
これをテーマにした映画は今まで散々作られてきたが、どれも流暢な英語を話し、見せるために脚本家が、あるときは省き、あるときは付け加えた娯楽映画に過ぎない。
しかし、この映画は監督 Mel Gibson の聖書の解釈を映画にしたものと言えるほど、聖書や伝承を実に忠実に (話す言葉さえも) 描いている。
The Passion of the Christ (Full Screen Edition)
「父よ、何故私を見捨てるのですか」
受難の期において、イエスは数々の関門を乗り越えていくが、彼は、父=神に対する疑惑とそれによる恐怖に打ち勝たなくてはならない。
やがて、イエスがその疑惑と恐怖に打ち勝った時、母マリアを見つめ、彼女にだけわかる言葉を言うのである。
「すべて終わった」
受難とは、イエスの誕生と同時に彼に課せられたものであり、マリアもまた彼の運命を知っていたのである。
彼にとっての受難はここで終わりを告げる。
「父よ、貴方の手に私の魂を委ねます」

□ Comment
トラバありがとう、とわざとらしく書いておこう。(笑)

実に、まとまった、真っ当な感想だと思います。 感情移入して観ていたアメリカ人が、心臓マヒで亡くなったというので、一時、話題になりましたよね。

仏陀は、修行のために、意識的な苦痛を求めてみたけれども、それでは、悟りは得られないと、やめてしまったそうです。

イエスは、人間の罪を背負って十字架にかかった。「神よ、この人達を許したまえ、彼等は自分達のしてることを知らないのです」こんなような言葉だったかな? だから、人間は、原罪というものがあり、一生かかっても返せない借金を背負ってる、というような解釈をしてるのですが、違うのかな?

私がどちらの立場にたってるか、いわぬが花ですね。
2005/09/23(金) 18:07:28 * URL * canterina #WLLrP7ig[Edit]
・客観的に観ている我々と違って、
信仰に関連する事柄に幼い頃から教えられている信者には主観的な見方になるんでしょうね。日本での仏教がいわゆる 「ほったらかし」 であるのに対して、教会という 「手取り足取り」 形をとった布教の利点はこういうところに発揮されるのかなと…。

仏陀の修行とイエスの贖罪はちょっと比較対象にはそぐわないのではないかな。どちらかといえば前世でトラに身を差し出した逸話のほうが状況として適切のような気がする。もともとイエスは神の子として生まれたのだから、悟りを得るための修行は必要なかったんじゃないの? ということは、仏陀もイエスも同じという解釈です。

で、私は二者の賛同のもとに苦行は避ける。こういうのを冒涜とか言われるんでしょうか。それに比べると、メル・ギブソンってのは敬虔なカトリック信者なんだなとつくづく思い知らされました。
2005/09/24(土) 01:17:14 * URL * tombo #-[Edit]

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